2004年6月30日水曜日

日本の農産物は欧米の農産物に較べミネラルが不足しているんだって



最近、寝ているうちに足がよくつるようになった。運動不足のためかと思っていたが、 ほとんど毎晩起こる。家人に相談すると「日本の野菜を食べているからミネラル不足になったのだろう」と。さすがにむっときたが、いわれたミネラル錠剤をの むと、あらあら不思議、一日でまったく足がつらなくなった。ネットで調べてみると、これは常識らしい。

関連サイト:

【healthクリック】なぜ足りない?日本人の「ミネラル不足」事情 

「日本の野菜が危機だ!」 

山でお勉強 

ミネラル不足の野菜 


なんでも火山灰で覆われた日本列島では、岩盤のうえに出来たヨーロッパやアメリカと違い、土壌にミネラルが基本的に少ないのだそうだ。おまけに間違った肥料を長年与え続けてきたこともあるらしい。

日本の農産物は高いうえに栄養不足。なんたることだ。早く中国産の冷凍ホウレンソウが食べたい! (これ農薬があるとかいって輸入禁止になったのか最近見かけない)

ちなみに、足がつるのはカルシウムとマグネシウムが足らないときによく起こるそうだ。これもネットで調べた。


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2004年6月26日土曜日

日経:国の借金、過去最大の703兆円・国民1人当たり550万円……このまま行けばどうなる!



Nikkei.net の記事 。このまま増え続けていったらどうなるのか? マクロ的には大丈夫だろう。国の借金といっても、国債を買っているのはほとんど日本人であり(外人はこんな馬鹿な物を買わない)、いわば日本人同士の金の貸し借りにしか過ぎない。また国家には徴税権という物があるから、返済不能に陥ることもないだろう。だからマクロ経済的には、このまま増え続けていっても大丈夫である。しかし思わぬ落とし穴がある。日本社会の質的変化が起こるのだ。

つまりこういうことだ。現在日本人一人あたり550万円の国の借金があるということは、国民一人あたり550万円の返済義務と利息の支払い義務があるということ。金を貸しているのは国債を保有している別の日本人だから、全体で見ればニュートラルなのだが、国の借金という物は他の借金と違う一つ重要な特徴がある。国は自己破産できないのである。つまり借金を棒引きにする方法がない(インフレという穏やかな棒引き策では債券価格が下がるので有効ではない)。

国債発行残高が増加して行くにつれて、国家税収のかなりの部分は国債償還と利払いに当てられることになる。やがては国税庁が必死で集めた税金のほとんどがそれに回ることになる。それは国内の資産家に支払われる。国税庁が資産家の借金・利息取り立て集金マシーンと化する。

これもまた経済の論理であり、仕方がないことのように見えるが、ここにもちょっと違う点がある。さっき言った国家は自己破産でいないという点だ。すべての貸し付けにはリスクが伴う。だから金利という物がある。資本主義の原点であり、資本家の存在意義はここ(リスクテイク)にある。ところが国債はリスクがないのだ。

とい言うことで、結局、日本は将来的に資本家とは呼べないような機能を果たさない「資産家」と「利息を払う人達(一般納税者)」という二極分化が進行することになるのである。これでは日本の資本主義は機能しない。


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2004年6月17日木曜日

asahi.com: 日本の富裕層、5.8%増え131万人 世界の17%……でも中身はどうなんだろう?



今朝の asahi.com :
大金持ち増加中——。メリルリンチ日本証券が16日に発表した世界の個人資産家に関する報告書による と、03年末時点の日本で不動産をのぞく金融資産を100万ドル(1億1000万円)以上持つ富裕層は前年末より7万2000人(5.8%)増えて131 万2000人。全世界の17%を占めた。報告書によると、全世界の03年末の富裕層は、前年末比50万人(7.5%)増の770万人で、保有資産は同7. 7%増の28兆8000億ドル(約3168兆円)。
ふ〜ん、すごいなあってとこだが、電卓で計算すると何かもの悲しい実情がかいま見える。

この記事では日本の富裕層は人 数だけで、金額が入っていないので、一応世界の平均値をとることとする。一人あたりの金融資産平均は約4億円だ。しかしこれは全くの平均値であり、余り意 味を持たない。市場経済では通常「8対2の法則」といって上位2割の人間が全体の8割を手にするのだ。すなわち全世界の金持ちの内の2割(154万人、内 日本人26万人)が全体の8割(2534兆円)を持っていると考えればいい。上位2割層の一人あたり金融資産平均は16億円程度だ。これが本当のお金持 ち。

残る616万人(内日本人105万人)の小金持ちは、 残りの634兆円に群がっているのだ。一人あたりにすると約1億円強(100万ドル)。メリルリンチのお金持ちの定義の下限すれすれ線にいる人達だ。

1億円でも良いじゃないかと一見思えるが、日本ではこ れを全額個人向け国債に投資しても年間の受け取り収入は70万円程度にしかならない。金利生活者(ランチエ)などとはとても呼べない。スーパーでバイトし た方がいい収入になるぐらいのものだ。

おまけに日本の小金持ちは高齢者が多い。現役時代年収 1000万円の収入があった人が、生活程度を落とさずに老後を送るには、公的年金の他に現金が1億円要るとの試算もある。日本の小金持ちの金 融資産は将来的に食いつぶされていくお金にしか過ぎない。後は何も残らない。

こうやってみてみると、日本の個人金融資産はすごいと か、景気のいい話が多いが、ストックの中身は相当お粗末であると推測される。とても羨ましいと言えるようなものではないようだ。まだまだ日本は、働いてフ ローで(GDPで)頑張らねばならないのである。

2004年6月15日火曜日

〔再録〕永井荷風の生涯』(小門勝二)……小門勝二が嫌いな人もこれを読めば考えが変わるかも


永井荷風の生涯』(小門勝二)……小門勝二が嫌いな人もこれを読めば考えが変わるかも



昨日の神保町。八木書店で荷風 関係の出物はないかと探したが、めぼしいものはなく、結局小門勝二の本を買うこととした。この人の荷風関連の本は、実に多数出ていて、多くは「大したこと ない」というので(坪内祐三なんかは「小門勝二は大嫌い、第一あの顔つきが嫌い」とすら書いているぐらい)、あまり気乗りがしなかったものだが、読んでみ るとなかなか楽しめた。


この『永井荷風の生涯』は昭和 47年に出版された本で、小門勝二のそれまでの5冊の本(『幻の愛人』、『東京の郷愁』、『ふらんす物語夜話』、『荷風耽蕩』)から著者が適宜抽出し一冊 の本としたもの。小門勝二もいい年になったときのもので、それまでの「スケベ親父」的な表現がずっと少なくなっている。というより非常に素直な荷風伝と なっていて好感すら持てた。

例によって、荷風から実際に聞いたとする言葉が無数に 羅列してあるが、あまり不自然じゃない。実際荷風が言った言葉なのであろうと思う。

たとえば、荷風の『冷笑』は荷風にとっての『にっぽん 物語』であり、『あめりか物語』『ふらんす物語』と併せて三部作としていっしょに出版したいという意向を持っていたとか、とても面白い。

その他『祝盃』で井上唖唖が洋食屋の娘とできてしまう くだりがあるが、あれは実際には荷風本人の話だったと荷風が白状しているとか、笑ってしまった。

興味深かったのは、小門勝二が『あめりか物語』のイデ スこそが『濹東綺譚』のお雪であり、荷風にとってのイデスは生涯を通じての女性だったと主張していること。これは散人もまったく同意見であり、わが意を得 たりであった。

小門勝二は荷風を人間として観察すると同時に、荷風の 作品を本当に好きで読んでいる人だ。「すみだ川」「おかめ笹」「つゆのあとさき」は予告編と前編・後編の関係で一つの流れになっているとか、本当に荷風の 作品が好きで没頭してないとなかなかこういう観察はできない。

小生もふくめて、最近の荷風の読者は、どうも磯田光一 や川本三郎など無数のエライ人達のソフィスティケイティッドな荷風論の影響を無意識に受けているためか、理屈で荷風を理解する人が多い。荷風文学は都市景 観の文学であるとか。その方が何となく知的なのだが、親鸞をプロテスタントに見立てるハイカラ仏教観と同じもので、理屈に過ぎるのかも知れない。もう一度 初心に戻って、荷風の「小説」を理屈抜きに読み直してみたいと思った。


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Posted: Tue - June 15, 2004 at 05:21 PM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (8) 

コメ消費が9カ月連続で前年割れ 4月、平均4.9キロ……そりゃそうだろう、誰でもボラれるのは、嫌だもんね



asahi.comの記事 。掲示板に寄せられた情報によると、100グラムあたりのコメの値段は、鶏肉の値段よりも高いという。世界一の圧倒的な高価格だ。そんなもんを、政府は一生懸命「バランスある食事を」という理屈で国民に食べさせようとしている。国内の利権擁護のためだ。みんな食べ慣れた食品だから、高くても否応なしに食べ続けている。でも、いくら何でもやり過ぎであった。日本国民も、ようやくそのことに気がつき始めた。

日本は世界的に税金が安い国であると政府は強引に主張しているが、トンでもない。コメに代表される食料品価格の世界水準から見て異常な高価格は、見えない税金として日本国民に科されている税金なのである。これを考慮すると、日本国民は世界で一番税金が高く、一番政府から収奪されている国民といえる。だから名目的な高所得水準にも拘わらず、国民の生活水準は、はっきり言って、世界平均から比べても貧しいのだ。先進国でも一番の貧乏国民である。認めたくない気持ちは分かるけれど、実際に購買力平価で見た一人あたり可処分所得ではそうなのだからしかたがない。

どうしてそんなことになるのか? それを許しているのは当然国内の強力な利権集団の存在と、「食品の安全」などといって、全農中等の利権集団の尻馬に乗って国際的に妥当な価格の食品の輸入を妨げることで、自分で自分の首を絞めているある種の「市民団体」の活動である。世界でも一番生産性の低い部類に入る日本の農水業業を、そのまま生産性の低い状態で、みんなして支えていくためのコストを払おうというのであるから、当然食品価格は高くなり、みんなの生活は貧しくなる。当たり前のことだ。

でも、そろそろ賢明な国民は自衛策をとりはじめている。当然のことだ。国際価格の十倍に達する国産米を、何時までも国民はだまされて食べ続けると思うのは、正直、甘い。「コメを食べるのは日本の文化だ」なぞといって、お上が無理やり国民に高いものを押しつけようとしても、経済合理性にそぐわないものは通用しないのである。

みんなでこの調子で、高いものは買わないという「草の根」抗議運動を続けることで、はじめて日本の農水産物の価格は国際水準に収斂し安くなっていくのではないか。日本の消費者、頑張れ!



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2004年6月6日日曜日

「米国では(高齢者の)おむつをはずせる手術があります」(高柳和江助教授)



さっきのエントリーで、あまり長生きしたくないと書いたが、それは「人間の尊厳」を失いたくないから。その尊厳喪失の最たるものは、やっぱり「おむつ」。ところがおむつをはずせる手術があると日本医科大学の高柳助教授が書いておられる。

今朝の日経の医療欄。何でも米国では十年以上前から行われている手術らしい。日本でも青梅市立総合病院で米国から医師を呼んで十年前からやられているそうだ。ところが日本の主治医や看護師は「失禁では死なない」などといってこの手術には消極的とのこと。

個人的には、尊厳を失って長生きするぐらいなら死んだ方がまし。単なる延命医療ではない、老人個人の生活の質を高めるための医療が望まれているのではないか。

2004年5月18日火曜日

Panther iDisk 同期、結局止めた

iDisk をローカルにコピーして同期させようと思ったんだけれど、一日経ってもきちんと同期しない。iBlog はローカルディスクに公開すれば簡単なんだけれど、あんなに同期に時間がかかるようでは、しようがない。朝書いたのがいまだにアップされないので、結局直接アップした。やっぱり、少々重くってもきちっと公開できるのがいい。

2004年5月16日日曜日

Entourage から Mail.app へのデータ移行(2)

ちゃんと成功したと思っていたら、一部のファイルが移行されていなかった。2000件ぐらい入っているメールフォルダーがスキップされていた。手動で移してみると、移ることは移ったのだが、そのフォルダーを選択するとメールの読み込み途中でエラーとなり落ちてしまう。一旦エラーとなると再度立ち上げても同じことが起こる。Library > Mail 内の MailBox を削除すると立ち上がるようになるが、あらたにインポートしても同じ。どうしても移せない。やむなくフォルダーを細分化して一つ一つが500件ぐらいにしてインポートしした。でもうまく行くフォルダーもあるが、行かないフォルダーもある。一つのメールに大きな添付ファイル(500kぐらい)が付いていたのがあったのでそれを削除するとようやくインポートできた。

これでちゃんと同じ環境で使うことができるようになって、ほっとしている。

でもメールソフトの切り替えはトンデモナイ時間と労力がかかることを嫌と言うほど認識させられた。取引銀行とメールソフトは、余程のことがない限り変えてはいけません。

Entourage から Address Book へのデータの移動

これには苦労しました。簡単にはいかないのです。結局 Vcf.card を使いました。

どうして Assress Book には import の機能がないのだろう。あることはあるのですが、Entourage には対応していない。何かやり方があるのかも知れませんが、面倒くさいので次のようにやりました。

1)Entourage から 「Vcf.Card を送る」というコマンドでもって「メールで」コンタクト先を自分宛に送信する。

2)受信した Vcf.Cards をまとめてデスクトップのフォルダーに保存。それを Address Book に読み込む。

3)Address Book は一枚ごとに保存するかどうかを聞いてきますので、ただひたすらにリターンを打つ。

これは、はっきり言って体力の勝負。疲れましたが何とかデータの移行に成功。

昔は誕生日の日付表示が狂ってしまったのですが、いまのバージョンでは大丈夫です。当然 Entourage 特有の細かいデータは失われますが、必要最小限のデータはこれで大丈夫。ほっとしました。

2004年5月15日土曜日

iPod にアドレス帳を同期させると名前がアルファベット順になる!

iPod にアドレス帳なんかを同期できるんだけれど、アルファベット順になってしまう。
Address Book は二種類の名前を書き込めないし、ちょっと困るな、これ。
でも常にすべてのデータを持ち歩けるってのは、いいね。勝手に同期をしてくれるし。
first nameには名前をアルファベットで、ラーストネームにフルネームを漢字で入れておけばいいのかな。

Entourage から Mail.app / iCal / AddressBook への移行

長い間お世話になった Entourage だが、今回 Apple 純正ソフトに移行することにした。Entourage はほぼ最高と言っていいほど機能的にすぐれたソフトなのであるが、ラップトップとデスクトップの同期がどうしてもうまく行かない。プロみたいな人はやっているようなのだが、Entourage のあの巨大なデータベース(一つのファイルとなっているのだ!)をどうやって同期させるのか見当が付かない。iPod 経由データベースを丸ごとコピーさせようとしても「データベースは使用中」と表示されてコピーできない。同期が簡単にできるアップル純正ソフトに乗り移るしかないようだ。でも Mail.app / iCal 等は、負け惜しみではないが、なかなかよくなっている。昔はちょっと使い物にならないと思ったのだが、そんなことはない。

きょうの午後は Entourage の巨大なデータベースから Mail.app / iCal / Address Book へのデータ移動。特に Address Book がやっかいだ。まだまだ調整中ですが、暇があるし、ぼつぼつやります。

2004年5月13日木曜日

天気は曇り、湿度は高い

今朝は風があってちょっと涼しい。でも湿度は相当高いようだ。雨が降るかも知れない。昨晩「本館ブログ」のテンプレートをいじったが、いま見るとあちこち不具合がある。きょうはその手直しだ。時間がかかるんだよね〜、テンプレートの修正。ついでにスタイルシートもいじってやろうかなどとも考えている。

Blogger の軽さに感激、やっぱりブログはこうでなくちゃ

Blogger の良いところは、そのシンプルさにある。必要最小限の機能であり、かつ必要十分。

本館の iBlog Site もこれに触発されて軽量化することにした。

iBlog に組み込んだ Haloscan のコメント、トラックバックシステムはとてもいいのだが、如何せんあまりに重たい。また調子に乗って本文を延長展開するような仕組みも組み込んだので、ブログを開くのにとても時間がかかっている。

今晩思い切って本体ブログの軽量化に取り組んだ。とても軽くなった。

2004年5月12日水曜日

RSS Feed もサポートしている!

Blogger は Atom Feed を採用したと云うことなんですが、普通の Feed eader では読めない。RSSを希望する人には Feed Burner という無料サービスがあります。Blogger が吐き出す Atom Feed をどんな Feed Reader でも読めるようにしてくれるサービスです。NetNewsWireLite でもちゃんと読めるようになりました。なかなかいい。

きょうは涼しくなった

きのうは真夏並みの厚さだったが、きょうは涼しい。四谷三丁目まで歩いても汗が出ない。いつものケンタッキーでアトキンス。日本の夏は暑いのがいやだ。

庭仕事少々。アースの回転式蚊取り線香(?)で蚊よけ。ハナモモからアブラムシの死骸が落ちてくる。オルトランを撒いておいたのが有効だったのか、先々週にスミチオンを撒いたのが未だ効いているのか。

白いハナモモはどうも縮葉病のようだ。面倒くさいので放っておく。

2004年5月11日火曜日

HP12C, 散人がいまだに愛用する電卓



最近 iPod を買ったりして「小物」づいている。でも小物を云えばこれを忘れてはいけない。Hewlett-Packard の電卓 HP12C である。20年来これを愛用しており、今さら替えるわけにはいかない。いまだの細々と生産を続けているとのことだが、どこがすごいのかを説明する。電化製品やパソコンなども、やはり機能や性能ばかりじゃないのだ。

HP12C はそれほど日本ではポピュラーでないので、みたこともないという人もいるかも知れない。写真はこれ↓




見るからに古めかしい電卓であるが、その使用感がまず すばらしい。相当力を入れないとキーは押せない。またキーを押すたびに「プチッ、プチッ」と音がして、一つ一つの数字がいかに大事であるかを実感させてく れる。いくら指が太くとも間違えて別のキーを押すことはない。ビジネスでは数字がすべてなのであり、間違えればそれでお仕舞いなのだ。

次にすごいのは、「逆ポーランド方式」という演算指定方式。1+1=2 を計算させるのに普通の電卓では記号通りに打ち込むが、HP12C ではそういうことはない。「1 ENTER 1 + 」で答えが出るのだ。つまり日本語通り「1に1を足す」とキー操作をするわけ。これがまたたまらない。会議なんかで「ちょっと電卓貸して」なんか云われれ ば、それこそ嬉々として貸してやる。誰も使えないのだ。たまらない優越感。

それから金融計算なんかさせると、延々と時間がかかるのも良い。複雑な計算をさせているのだから、簡単に答えが出てしまっては有り難みが薄れるのである。20秒ぐらい待ってようやく答えが出るが、待った甲斐 があったというもの。答えの重みが違うのである。

でも正直に云うと、遊びでは別だ実際のビジネスの現場 で HP12C の NPV や IRR の計算をやったことはない。実際のビジネスはもっとアバウトなものだからだ。あんな機能を使うのは一部の金融関係者だけだろう。でもこの機能がついている だけで、普通のビジネスマンも最先端のビジネスマンであるという「気分」に浸れるのである。計算速度が遅いのはまったく問題ない。普通の人はせいぜい足し 算、引き算それにかけ算ぐらいにしか使わないからだ。

電池が持つのも驚異的だ。ほとんど十年間ぐらい電池交 換の必要はなかった(あまり使ってないこともあるが)。でもこれだけ長い期間愛用すると、今さら他の電卓に替えるわけにはいかない。あの「プチッ、プ チッ」がたまらないのである。

要は、HP12C は長年かけて「神話作り」に成功したと云うこと。神話となるのは、神話を信奉する人達がその神話をとても居心地が良いと感じているからに他ならない。神話 であろうと無かろうと、とにかく HP12C は使いやすく、ユーザーに強い満足感を与えてくれるのである。

HP12C の博物館もあるよ→ http://www.hpmuseum.org/hp12c.htm
 

2004年5月10日月曜日

時間設定を間違った

時間を日本時間に合わせてなかった。いま修正して日本時間にしたのだけれど、以前のポストには反映されないのかしら?

Google / Blogger の新しいのを試してみる、シンプルでいいな

Google、Blog開設サービス「Blogger」をリニューアル という記事を読んでさっそく試してみた(ここから入る )。日本語も大丈夫。シンプルで必要最小限の機能がきっちりあって、デザインも洗練されている。何てったって Google だし、活用の方法を考えよう。

試しに打ち込んでみたのがこれ。「Letter from Yochomachi (Blogger) 」。トラックバックがついていないけれど、あんなの必要ないし、どうしても必要と思うのだったら、テンプレートに Haloscan を埋め込めばいいのかな(テンプレートを編集できる)。iBlog と違って外出先なんかで自分のラップトップを持っていなくてもブログの更新ができるし、非常用としてアカウントを持っておくのもいいみたい。まだ東京在住の方は三人しか加入されていないようですが、簡単に無料でできるのでおすすめ。サイドバーにリンクを埋め込んでおこう。

トラックバックはないけど……

あんなのはなくっても構わない。どうしても欲しければ Haloscan を取り付けたらいいのかな。テンプレートを編集できるし。

テンプレートもたくさん用意されている

感じの良いテンプレートもたくさんある。どれもごてごてしてなくって好感が持てる。

なかなかいい感じ

シンプルなのがとてもいい。ごてごてしてない。

日本語も大丈夫だ! 

日本語で入れてみたら、ちゃんと表示された!

はじめてのブログ(Blogger)

Blogger で無料でブログが作れるらしい。さっそく試してみる。

2004年4月30日金曜日

〔再録〕永井荷風の終焉の家の今、門だけは当時のまま


永井荷風の終焉の家の今、門だけは当時のまま



昭和34年4月30日未明、永 井荷風が亡くなる。大正7年から延々と書き続けてきた日記『断腸亭日乗』の最後の記載は:
四月二十九日。祭日。陰。
というもの。これを書いて、あとしばらくして食べたものを吐いて窒息死した。胃潰瘍だった。翌朝やって来た家政婦が遺体を発見。


その後の展開は有名なものだ。 佐藤春夫が葬式の様を詳しく書いているし、半藤一利も目撃談を詳しく週刊文春の記事に書いた。永井荷風のような大作家が、ひとりで誰にも看取られず、犬猫 のように陋屋で死んでしまったと言うことで、社会に大ショックを与えた。何という惨めな死に方だ、というのだ。

当時の社会風土からすればそういうことかも知れない が、平成の世になってみれば、誰の迷惑もかけず、ひとりで最後まで生きて死んだ、何かまるで大往生のように見えるから、世の中たしかに変わった。もう二十 年もするとこういう最期が一番望ましいと、誰もが考えるようになるのではないか。老人介護や介護保険の在り方も、あまり現在の考え方を基準にして設計しな い方がいいのかも知れない。誰もがグループホームみたいなところで和気あいあいとするのを望むとは限らないのである。

ところで荷風の終焉の家だが、いま荷風の養子さんが住 んでおられるが、また改築されたようで外観がかなり変わった。でも門だけは昔通り残っている。荷風は毎日引き開けた門である。先月市川に行った際に写真を 撮ってきたのでご紹介:


Posted: Fri - April 30, 2004 at 06:42 PM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (15)

2004年4月25日日曜日

なぞなぞ:「観光」という言葉の本来の意味は?


「観光立国」といっても内閣があんなじゃ誰も来ないよ


日経新聞はいろいろ勉強になる。京都国立博物館長の興膳宏氏がこういうことを書いておられる:
「観光」の語は、『易経』に始めて見える。「国の光を観る。用て王に賓たるに利あり」とあるのがそれである。「国の光を観る」とは、国の盛んな繁栄の様を観察するということ。そうした輝かしさにあこがれて、多くの人々が国王の賓客になろうとする。
小泉内閣が「観光立国」をいうなら、この言葉の意味を噛みしめるべきだ。

たしかに興膳氏のおっしゃるとおりだ。人は外国に「偉大なもの」を見に行くのである。エジプトに行くのも偉大なエジプト文明に接したいためだし、ローマだってそうだ。ニューヨークに行く人はエンパイヤステートビルディングや多くの美術館にアメリカ文明の偉大さを実感するのである。万里の長城や凱旋門もそう。もちろん「偉大な風景」も観光の対象となる。結局「あの国はすごいな」ということで観光に行くのである。

興膳氏は次のような強烈な皮肉をいわれている:
小泉首相は新年の施政方針演説で、外国人を対象とした「観光立国」の政策を推進すると述べた。それはよいが、そのためには国が応援団ではなく、当事者であるとの立場をよほど自覚してもらう必要がある。

強者の顔色をうかがうばかりで主体性のない追従外交に終始したり、官邸が音頭をとって弱者に対する集団リンチを扇動したり、閣僚が国民の義務である年金を払っていなかったり、この国の「国の光」は無きに等しい。もう誰も来ないのではないか。

あと一つ。前から言っているのだが、市街地の電柱・電線と看板を何とかする必要がある。イラクですらあんな醜い都市景観ではない。

2004年4月6日火曜日

「関西人には出っ歯が多い」(竹内久美子)



週刊文春(2004.4.8)「ズバリ、お答えしましょう」での竹内発言。問題発言ですな〜。でも彼女が言うと妙に説得力があって、納得してしまいます。ほんとでしょうか。

竹内久美子によると歯並びの悪さは歯と歯茎、あるいは顎との関係がうまく行っていな いためで、日本列島に最初にやってきた古モンゴロイドと後からやって来たシベリアでの寒地適応をとげた大きな歯を持つ新モンゴロイドが混血の結果、大きな 歯が小さな顎に生えるケースが出てきたのだという。それが出っ歯。関西は渡来人(新モンゴロイド)が多いので、それだけ混血が多く、歯並びが悪いという。

数字もあげており、出っ歯の比率はコーカソイドやニグロイドで2〜3%、日本人の場合6〜13%という。欧米人は歯の矯正をするから歯並びが良いのだとする説に対しては下記の通り反論する:
日本人は歯並びが悪くて当たり前なので、あまり矯正はしない。片や欧米人は歯並びがよくて当然なので、ちょっとでも悪いとしっかり矯正する……。
「西は西、東は東……」ですな〜。そういえば、日本では八重歯の方がカワイイとか言う人も多い。なにせ新旧モンゴロイドのミックスは日本列島でしか起こらなかったのだから……、由緒正しいのである。関西人も由緒正しいのだぞ。

2004年2月21日土曜日

〔再録〕なぜ荷風は美食への拘り持たなかったのか?


「荷風のこだわり」(東理夫)



今晩の日経夕刊に東理夫が書い ている:
酒や食べ物や服装などに意見を持っていた荷風も、最晩年は丸めがねにヨレヨレの洋服、それに下駄ばき で、しかもほとんど毎日、並のカツ丼と上新香とお酒一合をくり返し食べている。まるで、別人のようだ、と書いたところで、実は荷風のこだわりは方向性が変 わっただけで、少しも弱まっていないことに気づかされた。
そうかな。散人はそう思わない。


「グラスの縁から」と題する東 理夫の連続コラムである。この方の美食とお酒へのこだわりは相当のもので、いつも感心して読ませていただいているが、今晩の荷風についてのくだりはいただ けない。荷風は美食へのこだわりは持っていなかったと思うからである。

たしかに荷風は美食についての蘊蓄を傾けたことはあ る。しかしそれは「物まね文化でしかない明治大正の日本の美食文化への痛烈な風刺」という側面が強いのである。明治の皮相的な近代化文化は、もったいぶっ てカッコウ付けだけをしているが、お前らのやっていることはしょせん底が浅い物まねでしかないよと言いたかったのだ。実際の荷風は実食への関心は全くな かった(と言っていいと思う)。だから京成八幡駅前の大黒家の「甘くてべちゃべちゃする」カツ丼もものとはしなかった。栄養さえあればどうでもよかったの である。

これは荷風がサムライ家庭において教育を受けたこと と、自分で経験した最初の外国生活がアメリカ、それも西海岸であったことと関係があるように思える。美食にこだわった谷崎潤一郎と根本的に異なる点かも知 れない。

これは悲しいことであろうか。散人も実は長くそう思っ てきた。でも昨今の日本のグルメ文化の蔓延を見るにつけだんだん荷風の方が正しいと思うようになった。物知り顔で美食を語る文化人の文章を見るにつけ、荷 風のように「知ったかぶりしてカッコウつけるんじゃないよ」と毒づきたくなることもある。荷風の時代から半世紀が経過しているが、日本の「背伸び(こだわ り)文化」は大して変化していないと感じる。

食い物のスタイルにこだわるのは、カッコウが悪い。荷 風はカッコウの悪さを第一に嫌ったのである。

Posted: Sat - February 21, 2004 at 10:22 PM   Letter from Yochomachi   永井荷風       Comments (5)  

2004年1月31日土曜日

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2004年1月23日金曜日

なぞなぞ「世界で一番最初にお鍋料理を食べたのはだれ?」



お鍋料理にはスープも入る。世界の三大スープとはボルシチ、トムヤンクン、ブイヤベースかしら。いずれもおいしい。で、質問。誰が最初にこんなおいしい料理(スープとかお鍋とか)を発明したのでしょうか?

調べてみると、どんどん時代を遡っていく。結局火にかけることが出来る「鍋(容器)」を最初に制作した人がその中に食物と水を入れて「おなべ」を作ったと考えるのが合理的だとわかった。地球上で一番古い土器は青森県の縄文遺跡から発見されている。鹿の肉や魚介類、野菜などを入れて寄せ鍋を作っていた。縄文人は日本人のご先祖さま。よって、正解は日本人。ご先祖さまはえらかったのだ。


2004年1月11日日曜日

梅の剪定(NHK「趣味の園芸」2004.1.11)


今朝の「趣味の園芸」でウメの剪定方法の指導があった。目からうろこ。役に立った。 ウメの剪定時期は年に3回。花が終わった直後、5〜6月頃、そしていま(12月〜1月頃)。今の時期はつぼみが確認しやすく剪定によい時期であると。放送 されたポイントを備忘録として書いておきます。



ウメの剪定のポイント:

1)まず枯れ枝を元から剪る。下に切れ目を入れてから剪ると枝が裂けない。

2)太いところから剪る。剪る回数が減る(言われてみればと言うところですが、目からうろこ)

3)剪る枝は:

3−1)他の枝と交差している枝
3−2)ふところ枝(中心に向かって伸びている枝)
3−3)徒長枝
3−4)平行枝

4)最後にバランスを見て整えるが、二人でやれば剪る枝が分かりやすい(梯子の上に上ると全体が見えない。下から見て指示する人が必要)

5)剪る場所は外芽の上(内芽の上で剪るとふところ枝となる)

散人とこの梅はひどい状態。細い枝がヒョロヒョロ伸びて、みっともない。剪らなかったからだ。野猫さんにも以前ご指摘頂いたが、今年は仕事しなければならないな〜。

テレビを見て分かったつもりになったのですが、さていま梅を見てみると、どこで剪ったらいいのか分からなくなった! 耳学問の限界ですな。

2003年12月29日月曜日

冬のお便り


冬のお便り
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余丁町散人

今年は世界でいろんなことがあった一年でした。実にアホなイラク戦争は言わずもがなだけれど、ドルがこれだけ安くなったのは予想外だった。ブッシュはヨーロッパに意地悪するだろうからユーロは高くなるだろうとは予想していたのだけれど、さらに円高とは参った。そこまでなりふり構わないとは思わなかったのだ。小泉さんもこれではなんのためにあれだけおべっか使ったのかと言うこと。

まあドルベースで考えたら幾分お金持ちになったわけだから、文句は言うまい。日本株も少しは上がったし、悪いことばかりではない。

新年はどういう財務戦略で行くか、思案のしどころだな。

散人のもう一匹の猫

blog (weblog) に凝る

6月から blog を始めました。これ結構面白い。言いたいことを散々書き散らしています。「云ひたきことを云はぬは腹ふくるるわざなれば」、書いて発信する方がストレスは溜まりません。最近目立つのが「悪口」。我ながら意地悪爺さんだと思う。でも面白いよ。

ホームページにいくら書いてもほとんど読んでくれる人は居なかったんだけれど、blog にしてから読んでくれる人が増えました。一日平均で1000件以上のアクセス(ページビュー)です。うれしいな。読んでくれる人が居られれば、悪口の書きがいがあるというもの。散人に憎まれている方々、ご用心ご用心。

それから去年の11月から始めたルモンド紙の翻訳(抄訳)ですが、三日坊主の散人としてはめずらしく、一年以上続いています。フランス語の勉強のために始めたものですが、おかげで相当読む方は楽になってきました。今般、このルモンド翻訳のサイトが Yahoo に登録されました。カテゴリーはなんと「国際ニュース」。ロイター等と並んで小生の Le Monde Clippings というサイトが掲載されています。遊びでやっている旦那芸にしては立派なものでしょう? 自慢させてください。

家族と猫
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大学でてからしばらく行く道を模索していた長男の暁ですが、いよいよ今年からグラフィックデザイナーのプロとして月給をもらう身になりました。親としてうれしい限りです。勤務時間がとても不規則で、時々徹夜作業なんかやっているのがちょっと気がかりですが、若いから大丈夫なのでしょう。

パリでひとり暮らしをしていたアニーのお母さんも夏から老人ホームにはいることになりました。とてもいいところで友人夫妻と一緒のホームであり、本人は喜んでいるようです。でもそんなこともあり、家内は向こうで過ごすことが多くなりました。まあ一人娘だもんね。

猫(ピカチュウ)は相変わらずです。昼寝をしているか庭で遊んでいるかどちらか。ああいう身分は羨ましい。猫が主人に似たのかも知れない。

庭のカキは鳥たちに全部食べ尽くされ、いまはヒメリンゴのみが残るだけ。ヒヨドリがつついています。そのヒヨドリに冬の静かな日がさしています。

2003年12月19日金曜日

Le Monde 「クール・ジャパン」ポップの超大国日本


昨日に引き続き今日もポンス記 者の報告。「日本はポップのスーパーパワー」と最近の日本の若者文化を高く評価しています。10年続く不況が高度成長時代の一生懸命主義の抑圧をぶちこわ したおかげで新しい文化が花開いた。これはアメリカの一極文化支配に対抗しうるすごいものだというのですが……そうかね? 散人は女子供文化だと思うな。 まあほめられれば悪い気はしないけど。


ANALYSE
"Cool Japan": le Japon superpuissance de la pop
LE MONDE | 18.12.03 | 13h44 

分 析「クール・ジャパン」日本はポップのスーパーパワー (2003.12.18)

Au Japon, une pop culture pétillante d'inventivité reflète une société en ébullition où se forgent de nouvelles façons d'être, de penser et d'agir.

日本ではきらめくような創造性に富 むポップカルチャーが花開いているが、これは新しいライフスタイル、考え方、行動がるつぼのように融合する沸騰するような社会を反映したものだ。

Et si les indices économiques laissaient passer dans les filets statistiques un élément, plus sensible que quantifiable, qui constitue pourtant un moteur du dynamisme social ? Une culture de masse, des comportements, un air du temps. Ces notions sont vagues, triviales au regard des analyses en termes de taux et de rentabilité.

経済指標だけでは社会のダイナミズムは計測できない。 大衆文化や人々の行動や時代の雰囲気というものは、収益とか成長率とかの指標では分析できないものだ。

Le cas japonais est cependant révélateur, par ses paradoxes, de cette lacune de l'outil économique à appréhender une "écume des jours" perpétuellement régénérée. A lire les pages économiques et politiques des journaux, on est vite lassés : la vie politique est enlisée, l'économie rebondit ici, mais stagne ailleurs, les disparités sociales s'accroissent et l'opinion est inquiète. Les pages culture, styles de vie ou technologies donnent une autre vision : elles pétillent d'inventivité, fourmillent de nouveaux produits, épinglent des comportements inédits.

少なくとも日本に於いては経済指標だけでは、今非常な 勢いでもって生まれだしている草の根のエネルギーを把握できない。新聞の経済面や政治面を読むと、政治は停滞し景気は少しよくなっているところもあるがま だまだ悪く、社会の不均衡は増大しており世論は不安に満ちている。しかし文化面を見ると、日本のライフスタイルや技術進歩は別の見方を与えてくれる。創造 性に富んだ新製品がどんどん開発され、前代未聞の状況だと言うことがわかる。

Un contraste ressenti par le nouvel arrivant au Japon. La crise ? On la cherche dans le bouillonnement des rues des grandes villes, des magasins débordant de biens de consommation. Se fait jour assurément un pays à deux vitesses : un Japon prospère, et un autre qui souffre, s'appauvrit. Pourtant, un peu partout, on est emportés par le maelström d'une culture populaire effervescente, par le foisonnement des images intégrées au quotidien sous forme de produits dérivés. Tokyo ou Osaka sont des mines de surprises, d'inattendus : de grands bazars du bizarre. Film d'animation, style vestimentaire, graphisme, musique, design : ce kaléidoscope d'expressions reflète une société en ébullition où se forgent des façons d'être, de penser, de parler et d'agir qui remodèlent les rapports sociaux.

このコントラストは新しく日本に到着した外国人を驚か せる。経済危機だって? 大都会の街を歩けば店は消費物資であふれている。今日の日本は、たしかに二つの速度を持った社会なのだ。発展し豊かになりつつあ る日本と停滞し貧乏になっていく日本だ。特にあらゆる分野に於いて大衆文化の新しい波が怒濤のようにありとあらゆる細々した日常製品に組み込まれているの だ。東京や大阪ではこれは驚くばかりで、思いもしないようなへんな商品があふれている。アニメ映画、衣裳、グラフィック、音楽、デザインなどは、万華鏡の ように、新しいライフスタイるン替え方、行動様式が社会的広がりで融合し合う、新しく沸き立つような社会を反映するものだ。

En récession depuis douze ans, le Japon n'en est pas moins le grand foyer de la pop culture contemporaine : une Image Factory, titre d'un brillant essai de Donald Richie (Reaktion Book, Londres).

この12年の不況で日本は巨大な現代的大衆文化のたま り場となった。こうドナルド・リッキーはその著書「イメージ・ファクトリー」で述べる。

"Plus que les idées, l'image caractérise la culture moderne et, au Japon, plus que partout ailleurs", écrit-il. La pop nippone est d'une extraordinaire accessibilité : qu'on le veuille ou non, on est immergé dans la profusion protéiforme de ses expressions. L'Archipel est en train de détrôner Hollywood en termes de production d'images et Londres pour la mode.

「概念というよりイメージが日本の現代文化を特徴付け る」と同氏は言う。ニッポン大衆文化は誰もが否応なく接するようなもので、アクセスのしやすさは驚異的。あらゆるところに過剰なほどに存在する。日本列島 は今やイメージの大量生産という点においてはハリウッドやロンドンを抜いた。

"La pop américaine perd son hégémonie sur l'imaginaire mondial, estime le sociologue Koichi Iwabuchi, la mondialisation conduit à une diversification-décentrement des foyers de création de la pop." En Asie, ce décentrement se traduit par une japonisation accélérée des cultures de masse de la région, tandis qu'en Occident la pop nippone se taille une place de choix avec ses icônes (Pokémon ou Hello Kitty), le design néo-zen ou la vogue des sushis.

「アメリカ製ポップは映像の世界に於いてその覇権を 失った」と社会学者イワブチ・コーイチ氏は「ポップの製作に於いてはグローバリゼーションは多元化と多角化を生み出している」と言う。西欧諸国に於いては ニッポン大衆文化は禅とか鮨の言うイメージにとどまっているが、アジアに於いてはこの非グローバル化はとりもなおさずアジアに於ける大衆文化の日本かを意 味しているのだ。

Ce boom mondial, qui se traduit en profits, contribue à modifier l'image de l'archipel. Contrairement aux clichés passés (les "samouraïs de l'entreprise" et les débordements de sexe et de violence des BD), le message de la pop nippone est "cool", note Douglas McGray dans un article de Foreign Affairs : le jeune journaliste épingle le phénomène de sa diffusion comme une production de "gross national cool" (en jouant sur l'expression gross national product, ce produit national à l'aune duquel les économistes mesurent l'expansion). La pop culture japonaise - entendue dans le sens d'un ensemble de comportements, une sorte de style national - est "cool" : elle reflète un détachement ironique, un anticonformisme bon enfant qui se traduit par une esquive de l'autorité plus qu'une rébellion et se conjugue à une appétence pour l'insolite et le futile teintée de gentillesse naïve.

このような世界的ブームは既に利益を生み出しているこ とで日本のイメージチェインジに貢献している。従来の日本の紋切り型固定観念は「企業戦士」とかセックスと暴力に満ちあふれた漫画とかそういうものだった が、いまやニッポン・ポップは「クール」で格好いいのであるとダグラス・マックグレイが「フォーリン・アフェアーズ」に書いた。かれはこの現象を表す指標 として「グロス・ナショナル・クール」というGDPにあやかった言葉を工夫した。日本のポップ文化は「クール」であるという。皮肉な性格を持ち反体制的で もあるのだ。

UN ESPRIT DE PLAISIR

遊びの心

Le Japon a poussé le phénomène à l'extrême avec la déferlante du kawaï (le "mignon"), qui est devenu une dimension de l'imaginaire juvénile dans toute l'Asie et génère une prolifique industrie. On qualifiera le kawaï de puéril, de refus du monde adulte : c'est en réalité une expression de disponibilité affective à la fantaisie d'autant moins à rejeter, avec condescendance, dans l'infantilisme que sa vogue est portée par les jeunes Japonaises qui sont à l'avant-garde des mutations sociales.

日本では「かわいい」という言葉がむちゃくちゃ流行っ ている。アジアの若者のあいだでも大流行だ。この「かわいい」という言葉は大人にとっては子供じみた表現だが、大人社会への拒否という意味も含まれてお り、現実には突然変異的に現れた日本の若い世代が体制に反抗するために幼児性の中に閉じこもると云う性格もある。

Le Japon vieillit et pourtant il est le creuset d'une culture jeune qui marie habilement inventivité, underground, commercialisation et nouveaux médias. Plusieurs facteurs concourent à ce boom. D'abord, la mutation de l'économie vers le tertiaire, c'est-à-dire les services et les loisirs, qui coïncide avec de nouvelles conceptions de la vie, du travail. Les "dix années perdues" ont levé le carcan du productivisme des années 1960-1980, rompu la gravité pesante de l'utilitarisme et du "sus à la flânerie" du taylorisme à la nippone et redonné à la société une diversité, une mobilité et une inventivité étouffées par la mobilisation des énergies vers la rentabilité.

日本では高齢化が進んでいるが、同時に商業的でアング ラ的な若者文化のるつぼでもある。これにはいろんな要素がある。まず第一に、産業構造の第三分類化(サービス化)でライフスタイルや労働価値観が変わった ことである。「失われた10年」は1960年から1980年にわたって支配的だった生産性の拘束を解き放した。効用主義やテイラー主義が日本社会を支配し ていたのであるがその重しが解き放された。

Moins riche, le Japon se doit d'être inventif. Et il l'est au quotidien : c'est par exemple dans la rue que stylistes et designers cherchent leur inspiration en observant la constante réinvention du look dont elle est le théâtre.

たしかに日本は金持ちではなくなった。金持ちでないの でより創造性が求められた。日常生活に於いてスタイリストやデザイナーがインスピレーションを探すようになった。

Second facteur : un héritage culturel. Les filiations sont toujours hasardeuses, mais on peut avancer trois éléments qui prédisposent à la réception de la pop culture contemporaine. D'abord, un état d'esprit. Depuis son contact avec l'Occident au XIXe siècle, le Japon a fait preuve d'un étonnant éclectisme dans l'adoption/adaptation des éléments de la culture étrangère : postmoderne, il l'a été avant la lettre par une hybridation dont les villes sont une expression par leur étonnant collage architectural et dont aujourd'hui la cuisine fusion est une autre. Les fabuleux automates de la fin du XVIIIe et du XIXe siècle pourraient bien être aussi les devanciers des Tamagochi, robots de compagnie et hominoïdes d'aujourd'hui. Car "il y a au Japon une désacralisation et une relation à la fois ludique et affective à l'objet technique. Un mode d'intégration du technique au quotidien par l'appropriation imaginaire", note la sociologue Christine Condominas dans un article à paraître sur les étonnantes décorations des téléphones mobiles. Dernier élément : un sens du ludique, un esprit de plaisir qui est une constante plusieurs fois séculaire de la mentalité du petit peuple. Une disposition à s'amuser, à se laisser emporter dans la fantaisie, qui avait régressé sous le tuf du productivisme et qui renaît peut-être sous la forme de la pop moderne en enrichissant de mignardises et de magique la plate notion de loisir.

二番目の点は、文化的な伝統である。関連はばらばらで はあるが現代のポップ文化を歴史的な三つの要素で説明することが出来る。まsずその精神。最初に西欧文化に触れた19世紀以来日本は素晴らしい折衷主義を とって外国文化を取り入れてきた。ポストモダンの時代においても、街の建築にはとんでもない東西文化の折衷が見られ、無国籍料理が流行っている。18世紀 と19世紀に現れたからくり人形は現代の「タマゴッチ」の原型でもある。日本には精神文化的タブーが無いので遊び心と技術を結びつけることが出来るのだ。 日常製品について技術製品にイマジネーションを結びつけるやり方は、社会学者のクリスティーン・コンドミナスが携帯電話器への装飾品文化について書いてい るとおりである。最後にこの数世紀にわたって存在した日本の遊び心が、生産性優先主義のために一時期押さえつけられていたのであるが、多分現在このポッ プ・カルチャーとして花開いたとも言える。

Le boom mondial de la pop nippone remédie aux distorsions de l'image du Japon productiviste et homogène - mythe tenace que des historiens contemporains se sont employés à déconstruire -, en y substituant celle d'un pays à la culture éclatée, diversifiée, protéiforme. Il se traduit par un rapprochement de l'Archipel et de sa région. La frénésie des jeunes Asiatiques pour la pop nippone est en rupture avec la perception des générations précédentes, marquée par les stigmates du colonialisme.

このニッポン・ポップの世界的流行は、日本の従来から の牢固たる伝統的イメージ、つまり生産性と同質性という固定観念を修正することになろう。これは現代の歴史家達が修正しようと努力していることでもある。 日本は現実には、文化は花開く、多元的で多様な、変幻自在な社会なのである。これは人を日本列島に引きつけることとなる。アジアの若者達がニッポン・ポッ プに熱狂することに植民地時代の傷跡をまだ持っているアジアの熟年世代は目をひそめるが、世代の断絶がある。

LE RESPECT DES DIFFÉRENCES

異質なものの受け入れ

Certes cosmopolite, la pop nippone véhicule "une identité à la fois asiatique et moderne", écrit Alessandro Gomarasca dans Poupée, robots, la culture pop japonaise (Autrement), et elle a bénéficié de la vague antiaméricaine du lendemain de la crise financière (1997-1998). Les jeunes Asiatiques se reconnaissent plus dans ce qu'ils trouvent "tendance" que dans ce qui vient des Etats-Unis. La pop nippone donne lieu, enfin, à des phénomènes d'appropriation et de fertilisation croisées (entre les pop japonaise et coréenne, par exemple).

たしかに無国籍性を持つこのニッポン・ポップは「アジ ア的であり同時に現代的である」とアレサンドロ・ゴマラスカは日本のポップ・カルチャーについても著書「人形」で書いた。これは1997−1998年の金 融危機の際にあらわれた反米主義によって増長された面もあるという。アジアの若者達はアメリカから来る文化よりも、日本のポップ・カルチャーの中により自 分を見いだしたのである。日本のポップ・カルチャーは遂に文化の錯綜するアジアに於いて肥沃の土地を見いだしたのである(たとえば日本と韓国のポップの交 流とか)。

Cet engouement pour la pop nippone en Asie pourrait remédier au "déficit de légitimité" de Tokyo dans la région, estime le spécialiste des relations internationales Masayuki Todokoro. "La pop culture peut véhiculer des valeurs comme celle de l'Amérique des années 1960, ajoute-t-il. Mais alors que la pop américaine insiste sur les droits de l'homme, la démocratie, la pop nippone privilégie les relations avec les autres et le respect des différences." Ephémère feu d'artifice ou facette du phénomène d'incubation d'un nouveau paradigme social nippon ? Le Japon se réinvente en "superpuissance de la pop", expression inédite de "soft power", avance Douglas McGray.

アジアに於けるニッポン・ポップへの熱狂は日本のアジ アに対する「正統性への負い目」を解消するかも知れないと国際関係の専門家トドロキ・マサユキ氏はいう。「ポップ・カルチャーは1960年代のアメリカの 大衆文化のように価値観の伝播手段となる」と彼は言う。ただ「アメリカ大衆文化は、人権とか民主主義とかに拘ったが、ニッポン・ポップは他者との共生や異 質性を尊重する」と。これは線香花火のような一時的な現象なのであろうか? それとも日本社会の新しいパラダイム・シフトの始まりなのであろうか? 日本 はいま「ポップのスーパーパワー」として、つまりダグラス・マックグレーが言う前代未聞の「ソフト・パワー」として、再発見されつつある。

Philippe Pons

• ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 19.12.03


2003年12月5日金曜日

Le monde / 庭木の剪定(ルモンド式)



庭木の剪定法についての記事。 要は「何もするな、自然にまかせろ」というもの。日本ではスペースの関係もあり不自然に樹を刈り込みすぎる傾向があります。街路樹なんかもう少しのびのび と伸ばしてもいいように思うんだけど、見るも無惨に毎年刈り込む。あれは業者の仕事を作るためなんでしょうね。住民税が高いわけだ。山林もそう。年中間伐 をしている。江戸時代ならいざ知らず、現在の人件費では林業が成り立たないのも宜なるかな。環境保全のため必要というが、専門家も認める日本で一番美しい 森とはいっさい手を入れていない明治神宮の極相林であることを思い起こすべきです。ちなみに散人はずぼらだからどうしても必要な場所以外は剪定しません。 この記事には「わが意を得たり」です。


Toujours tourner sept fois son sécateur dans la poche du tablier
LE MONDE | 03.12.03 | 14h03


刈り込む前にポケットのなかで剪定 ばさみを7回まわせ (2003.12.3)

Quand tailler et comment s'y prendre ? Cette question à tiroirs, tous les jardiniers se la posent un jour ou l'autre, particulièrement quand ils débutent. La réponse pourrait tenir en deux phrases... comme elle pourrait occuper les deux cents ou trois cents pages d'un manuel savant.

いつ、どういう風に剪定するのか? この問題にガーデ ニングの初心者はいつも頭を悩ます。分厚い参考書を読むのもけっこうだが、ごく簡単な方法もある。

Alors faisons simple !

じゃ簡単な方法で行こう!

Quand ? A toute période de l'année ! Comment ? Avec doigté ! Selon les plantes évidemment, selon les régions, le climat. Certains arbres et arbustes se passant parfaitement de la moindre intervention du sécateur quand d'autres ne pourraient se développer harmonieusement sans l'aide de la taille. D'une façon générale, les arbres de plein vent - le terme employé pour dénommer ceux qui poussent sur leur tronc - n'ont pas besoin de taille. Ce qui n'est pas dommage car grimper dans une double échelle pour tailler un pommier, un poirier, un grand prunier ou un cerisier ne serait pas aisé. Le vent se charge d'éliminer les petites branches mortes à la mauvaise saison ou pendant un fort orage d'été. Les arbres font leur toilette eux-mêmes. Si l'on regarde un pommier dans un pré normand, il n'est que de voir que les branches latérales penchent, en leur extrémité, vers le sol, chargées du poids des pommes. Ce faisant, à l'endroit où le bois s'infléchit une nouvelle petite branche naît. Elle prend la sève à l'ancienne qui pique du nez et finit par se dessécher. Le bois meurt, le vent le fait se casser. Et le cycle continue sans intervention humaine. En revanche, le gui devra être retiré des arbres qu'il envahit.

いつ剪定するか? 一年中いつでもいい! 何を使って 剪定するか? 指でだ! もちろん樹木の種類によって、まや地方や気候によってやり方が違う。ある種の樹木や灌木は全く剪定しなくとも大丈夫だが、ある種 の樹木は人の手で剪定しないと美しくは成長しない。一般法則で言えば、幹が太い高木は剪定する必要は全くない。林檎、梨、桜などの高木に梯子をかけて剪定 するのはたいへんだから、助かったと言うところ。風が枯れた小枝なぞを冬のあいだや嵐のおりに勝手に吹き落としてくれる。樹木は自分で身繕いをするのだ。 ノルマンディーで林檎の木を見るとわかるが、水平方向に伸びた枝は端の方で太陽に向かって幾分伸び上がり、林檎の実の加重を支えるようになっている。そう やってその部分から新しい枝が伸びやすい様にしているのだ。新しい小枝は古い枝から樹液を奪い、古い枝は枯れて落ちるという循環だ。このサイクルは人間が 介入しなくとも続く。でも宿り木は(人間が)除去してやらなくてはならない。

En fait les grands arbres qui poussent librement ne devraient jamais être taillés. Pour cela, il faudrait qu'ils aient été plantés là où il le faudrait, ce qui n'est pas toujours le cas. Et les arbres des villes le sont fréquemment pour ne pas sortir de l'espace qui leur est imparti. De là, ces affreux têtards de tilleuls, de marronniers dans les cours d'école et le long des boulevards. Quelle pitié de voir le tilleul, arbre si majestueux au naturel, grand, vigoureux, dont le bois, dense, fin, sans nœud et ne bougeant pas était fort prisé des luthiers, ramené à un tronc surmonté de bras difformes, chandelier végétal monstrueux. Quelle pitié aussi de voir ces grands platanes massacrés à la tronçonneuse dont les branches, grosses comme le bras, ne pouvant pas cicatriser, pourrissent et le font crever à petit feu. Aucun de ces deux arbres ne devrait être planté à moins de vingt-cinq ou trente mètres d'une maison, dans un jardin faisant moins de 1 500 mètres carrés. On en est loin, quand on dénombre un saule pleureur, un cèdre de l'Himalaya (adulte, il tient dans un cube de quarante mètres en tous sens) et d'autres arbres encore dans un jardin moitié moins grand !

事実、自然のなかで育っている高木は決して剪定しては いけないのである。だからそれらの樹はそのような適した状況のなかで育てられねばならない。街の中の庭に植えられた樹は境界をはみ出さないようにしなけれ ばならない。だから学校の中庭や街路に沿って植えられた樹には、悲惨な状況が起こる。自然のなかではのびのびと育つ樹が街中で無様に上を切りつめられた様 を見ることはいかに悲惨なことか。これらの高木は25−30メートル間隔で植えられて、庭の広さは少なくとも1500平米はあるべきなのである。ところが そうも行かないので、小さな庭に自然のなかでは40メートルに達するヒマラヤスギが植えられたりする。

Pour le reste, s'il est quasi inutile de tailler rhododendrons, azalées et camélias, les rosiers ne peuvent se développer sans une taille annuelle qui se pratiquera en hiver, avant la fin janvier, sur toutes les variétés modernes, dites remontantes, fleurissant plus ou moins continuellement à la bonne saison. Après la floraison s'ils ne fleurissent qu'une fois. Plus un rosier est vigoureux, plus il sera taillé long. Plus il est faiblard, plus il sera taillé court. Ce qui est facile à comprendre : le pied vigoureux n'aura aucune difficulté à nourrir les nombreuses branches tandis que celui qui est faible peinera à le faire.

他の植物、たとえばシヤクナゲやツツジ、またツバキを 剪定することは全くの無駄であるが、バラについては冬期の剪定は欠かせない。バラは元気であればあるほど長く、元気がなければ短く剪定する。元気はバラは たくさんの葉っぱに栄養を供給できるが元気のないバラはそれが出来ないからである。

Les arbustes qui fleurissent au printemps ne seront taillés qu'après leur floraison : si on le fait maintenant, le sécateur fera tomber des branches porteuses de boutons. Ceux qui fleurissent l'été pourront en revanche l'être pendant l'hiver. Ceux qui sont un peu sensibles au gel pourront attendre (arbres à papillons, lavatères arbustifs) début mars, les autres seront taillés dès maintenant si le besoin s'en fait sentir. Et nous laissons de côté les fruitiers en espaliers qui exigent un savoir-faire fait de savoir, d'empirisme, de coups d'œil qui ne s'apprennent pas plus dans les livres qu'on ne peut les transmettre autrement que par l'exemple. Et pour tout dire, on ne sait pas trop comment s'y prendre. Un sécateur en mains, devant un espalier déjà formé, on s'en sortirait à peu près, mais certainement pas devant un espalier à former. C'est un métier ! Pour ceux qui savent, c'est un jeu d'enfant et ils sont capables du bon geste, sans réfléchir, tout en vous parlant.

春に花を着ける低木は花の後にだけ剪定する。もし今 やってしまうと花芽を摘んでしまうことになるから。夏に花を着けるものについては冬のうちに剪定可能。霜に弱い樹は三月の始めまで待った方がいい。果樹に ついてはその剪定は代々続いた植木職人の職人芸を必要とするので本を読んだだけじゃ無理。やらない方がいい。素人がやるとろくなことはない。

C'est là que le doigté intervient. Que les jeunes jardiniers se rassurent, la plupart des arbustes à fleurs du jardin, à l'exception des rosiers, des arbres à papillons, des glycines, des clématites et de quelques autres espèces et variétés dont la taille se doit d'être suivie, doivent être rabattus à la plantation puis être débarrassés des branches qui se développeraient de façon disgracieuse en dépassant des autres ou en poussant de travers. Ils seront laissés tranquilles jusqu'au moment où ils deviendront un peu trop encombrants. Ils seront alors sévèrement rabattus et le cycle recommencera. Trop user du sécateur favorise la naissance de branches qui s'enchevêtrent et ne donne finalement rien de bon. Et le risque est plus grand de trop tailler que de ne pas assez le faire. Moins on sort le sécateur, mieux c'est.

そこで指芸の登場。初心者にとっては気が休まるが、バ ラ、フジ、クレマティスなどの特別の花木を除いては、ほとんどの花を着ける庭木は、植え付けの時に、いったん乱れた徒長枝を根本から折り取らなければなら ないが、その後相当枝が茂り混み合ってくるまでは手を着けずに放っておけばよい。ようやくその段階で混んでいる余分な枝を根本から折り取るのだ。また混み 合ってくるまでは放っておく。そのくり返しをするのである。しょちゅう剪定ばさみを使ってちょこちょこ剪定していると余分な徒長枝を発生させることにな り、いいことはない。余分に剪定するリスクの方が不十分にしか剪定しないリスクより高い。剪定ばさみは使わなければ使わないほどいいのである。

Alain Lompech
• ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 04.12.03